Aug19th

音楽

長戸大幸(音楽プロデューサー)

   滋賀県立膳所高等学校在学中、校内に音楽サークルを立ち上げ、WEEDSを結成。メンバーには後にザ・カーナビーツで活躍するポール岡田や、後のSONY洋楽ディレクター・森下彰夫が在籍していた。京都の月世界、大阪のナンバ一番などで活動していた。(長戸作曲の当時では珍しい英語詞曲でエントリーしたが、アマチュアオーディションで優勝したのはファニーズであった。)
   1969年5月に大学中退後、京都で5人組のロックバンドFeedBackを結成。ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ京都公演の幕開けで出演。
   1971年9月までにメンバーチェンジを経て3人組となり「赤と黒」というバンド名で1972年2月1日に京都をフォークロックのメッカとすべく、デビューシングル「Mr.D.J.」をテイチクのBLACKレーベルよりリリースした。ラジオDJを風刺した作風となっており、ヴォーカル、ギター、作詞、作曲を担当。一作のみリリースし、残りのメンバー2名が大学卒業を機に解散。
   1972年、副業として京都「BAL」にてブティックを経営。(洋服のデザインなども行っている。)
   1975年上京、どうせ音楽をやるなら、目一杯トップと関わりたいと歌謡曲なら阿久悠と知り合おう、フォークだったらフォーライフ・レコードがいいんじゃないかと、歌謡曲とニューミュージックの両方から攻めるという戦略を実行した[1]。六本木の事務所オフィス・トゥ・ワン(阿久悠、森田公一、井上大輔などが在籍)に入り、作曲活動を開始する。デビュー作は1976年12月のシーチャン・ブラザーズ。また、石原裕次郎、橋幸夫、和田アキ子などの楽曲に作曲家として活躍する。傍らフォーライフの1975年第一回新人オーディションに応募して、川村ゆうこ、原田真二らと最終の4人に残る[1]。フォーライフより1977年8月27日までの新人ツアー「FORLIFE Fresh Forward FESTIVAL」への出演と、8月25日「軽い気持で」(FLS-1008)でソロデビューとが予定されていたが、表方より裏方の方が面白いと感じ、ツアーを途中降板した。見本盤は作られたがデビューはしていない[1]。また、マネージメントオフィスBIG MUSICを設立し、妹尾隆一郎のマネージャーを引き受ける。
   1977年、アメリカ・ナッシュビルに舘ひろしと渡米し、録音。ここで「朝まで踊ろう」(長戸大幸作曲)をレコーディングしてリリースした。
   スピニッヂ・パワーの「ポパイ・ザ・セーラーマン」を「Danny Long」名義(後に判明)で制作して、ヒットさせたことから、1978年11月、ビーイングを設立。その後、群馬県高崎から寺西修(後の氷室京介)を連れてきて、スピニッヂ・パワー第三期ヴォーカルとしてデビューさせたりと様々な活動をする。
   1980年9月21日、パーティーで出会った当時中学3年生だった三原順子をデビューさせる。
   1981年、LAZYのメンバーだった高崎晃と樋口宗孝に二人を加え、LOUDNESSをデビューさせる。
   1981年、エマニエル坊やの「シティ・コネクション」を作曲(Danny Long名義)。オリコン1位を獲得する。
   1981年12月17日、LOUDNESSが浅草国際劇場でのデビューコンサートを成功させる。[2][3][4]。
   1982年、氷室京介(当時は氷室狂介)、布袋寅泰率いる暴威(BOØWY)をデビューさせる。(当時は6人組)
   1982年、秋本奈緒美をアイドルジャズでデビューさせる。
   1982年、高崎晃のプロデュースでヘヴィメタルアイドル本城未沙子をデビューさせる。
   1983年、続いて樋口宗孝プロデュースで浜田麻里をデビューさせる。
   1984年、井上陽水のシングル「悲しき恋人」を作曲(パインジュースの缶名義)
   1985年までにイニシャルがH・M(ヘヴィメタル)となっているアーティストをプロデュース。(浜田麻里、本城未沙子、橋本ミユキ、早川めぐみ)
   町田市の楽器屋主催の音楽祭で出演して知り合った前田、角野、松本、春畑の4人を引き合わせ、1985年6月1日、ザ・チューブ(現・TUBE)をプロデュースしてデビューさせる。
   長戸が松本孝弘に稲葉浩志を紹介し、1988年9月21日、B'zをプロデュースしてデビューさせる。
   1990年、さくらももことアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「おどるポンポコリン」(チンポコリンを風刺)でB.B.クイーンズをデビューさせ、同年のオリコン年間シングルチャート1位となり、第32回日本レコード大賞ポップス・ロック部門を受賞。第41回NHK紅白歌合戦にも出場している。また、1991年にリリースした「ドレミファだいじょーぶ」(長戸作詞)は日本テレビ「はじめてのおつかい」に起用される。
   1990年代前半、「KDD(K-カラオケで歌われる・D-ドラマ主題歌・D-大幸)」がヒット曲の三要素とまで言われた。[要出典]ちなみに、逸見政孝(夜も一生けんめい's(逸見政孝、杉本彩))、高田純次、などタレントの楽曲の作詞を手がけた。
   1991年2月、坂井泉水をZARDとしてデビューさせる。
   1991年2月、Mi-Keをデビューさせる。
   1991年7月、T-BOLANをデビューさせる。
   1991年8月、KIX-Sをデビューさせる。
   1991年10月、黒木瞳「それでいいのね」をプロデュース。
   1991年12月、WANDSをデビューさせる。
   1992年、大黒摩季をデビューさせる。
   同年11月、オフィストゥワン時代の友人である中島薫のために宇徳敬子&近藤房之助「Good-by morning」をプロデュース。
   1993年、DEENをデビューさせる。耳の持病悪化を理由に音楽プロデューサーを一旦、引退。東京(東日本)での仕事や文化を嫌うようになり、大阪に活動拠点を置いていたが、毎月何回か東京に出向いていた。
   1994年、Grand Cafe(心斎橋)をオーナーとしてオープンさせる。
   1995年、FIELD OF VIEWをデビューさせる。
   1997年、その後大阪を中心に音楽プロデューサー業に復帰し、小松未歩をデビューさせる。大野愛果を作曲家デビューさせる。
   1999年、宇多田ヒカルの大ヒットに刺激を受け、倉木麻衣を大阪でデビューさせる。
   2000年、GARNET CROWを結成させ、デビューさせる。
   2002年から2004年まで3年連続して滋賀県高額納税者番付第1位であった。
   2005年、エフエム滋賀の取締役に就任。
   2007年、音楽事務所ビーイング代表取締役を退任するが、プロデューサー業は時々続投。
   2008年、堂島リバーフォーラムをオーナーとしてオープンさせる。
   2016年、GIZA studio所属のクリエイターによるプロジェクト「d-project」のプロデュースを開始。